音楽にまつわる想いを綴る

記憶をたどりながら音楽と私について綴ってみる。
それは同世代の人と出会う時、よもやま話の1つとして「音楽」の話題が出ることもある。
幼少の頃からの記憶をたどる旅、家族の話し、学生時代など懐かしい写真も紙をスキャンしてみた。
※40歳後半~60歳前半までがざっくりと音楽的同世代かも。
下部にはSpotifyプレイリストを作りました。
この音楽の好み、わかる~~~って人がいたらうれしいです(笑)
ここから始まった 洋楽への目覚め
好きか、嫌いか、出だしの音を聞けばわかるくらいに私の好みは瞬時かつ敏感だ。
その基準が何なのかよくわからないけど、きっと私の中の「無意識」の部分や細胞が反応して教えてくれる。
一般的にヒットしている楽曲だから「好き」有名アーティストだから「好き」というものではなく、心が動くか動かないかで好みは決まる。
そして、私の心を正常に保つ上でも「好き」なものを意識的に吸収することは大切だと思っている。
幼少期
音楽の好みって胎教とかに関係しているのかな?
母は他界しているので私をお腹の中でどんな気持ちで育てていたのかは不明ですが、家には古い海外のシネマミュージックやジャズ、マンボなどのシングルレコードが段ボールにたくさん入っていたのを記憶している。
たまに母がレコードをかけると私と弟たちは大騒ぎで踊り出す。
特に私たちはマンボの楽しげなリズムが大好きで音楽がかかると気が狂ったように踊り出して、楽しくなってゲラゲラ笑って奇声を発しながら、激しくはしゃいで踊ってころぶ、みたいな感じの三姉弟でした(笑)
そのくらい大騒ぎしたのは今でも鮮明に覚えています。
※昭和30年代「マンボNo.5」の世界的大ヒットで日本でもマンボブームが到来していたらしいので母も好きだったのかもしれません。

私8ヶ月まるまるぱんぱん!(笑)

小学期
小学生の時、アメリカ映画「グリース」を見てポップな世界観とダンス、なんて楽しそうなんだ!!と心震えました。
のちに高校1年の時に短期間ですが、原宿ホコ天でロックンロール族として同級生と一緒にサーキュラースカートとポニーテールで踊ったりもした。
当時の写真が残ってなくてお見せできませんが、今でもツイストやボックスステップは踊れます!
※『グリース』(Grease)1978年 ジョントラボルタとオリビアニュートンジョン主演のミュージカル映画
→参考youtube Grease (1978) Trailer #1はこちら


中学期
1980年初頭、仲の良かった友人の家に行くと大学生のお兄さんが集めていたレコードや漫画がびっしり並んでいる部屋があり、留守がちな友人兄の部屋へ勝手に入りレコードをかけて漫画を読んだりすることが多かった。
ビリージョエルやアースウィンド&ファイヤー、ホール&オーツ、クイーン、アバなど王道洋楽やジンギスカンやノーランズなどのダンスミュージックも友人兄のレコードから知る。
書棚に並んだLPを勝手に拝借して自宅でカセットに録音なんてことも頻繁にしてました。
特にLPに入っているシングルヒットじゃない曲の中にも好きなものがあったりしてそれを探すのが好きでした。
LPの中の好きな曲だけをカセットに入れていく作業もしていた。
日本人ならゴダイゴやYMOなどが好きだった。
クラスの中には音楽の趣味が同じ人はいなかったと思う。
時代は新御三家(野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ)から聖子ちゃん、トシちゃん、マッチなどのアイドルへ。
歌番組は「夜のヒットスタジオ」と「ザベストテン」など。
私は「ベストヒットUSA」、深夜放送のアメリカ「MTV」とFMラジオが好きでした。
週末の読売新聞のラジオラテ欄には一週間分の番組でかかる楽曲やアーティスト名が書かれていて赤ペンでマークして聴きたい楽曲がかかるFM番組をカセットデッキで録音(笑)
タイマー機能はなく深夜のラジオを聴くために目覚ましをセット。
ほぼ洋楽にしか興味がなく、AM放送(オールナイトニッポンなど)は全く聴くこともなかった10代。
勉強はほぼしないで音楽ばっかり聴いていた。
中学生の頃はまだスカート長めが主流でした(笑)


高校期~成人
高校生になると新宿や渋谷のディスコに行くようになる。
この時代のディスコはフリーフード、フリードリンク、女子はほぼ無料で入れるような感じでサーファーディスコが大流行!
陽に焼けた肌、サーファーカット、泳げないので海には行かない丘サーファー風(笑)。

親友の幼馴染がロックバンドを結成しライブに誘われギターを担当していたK君から聴いてほしいと手渡されたヘビメタ系の何本ものカセットテープ。
彼らはラウドネス、アースシェイカー、44マグナムなどの日本のロックバンドのコピーバンドで渋谷のLa.mama、新宿LOFTなどで演奏をしていた。
どう見ても丘サーファーみたいな見た目の私は浮いていたに違いない・・・
初めて耳にする日本のヘビメタ、ハードロック・・・・ハマりました(笑)
そのことを彼には言えなかった。
ロックを聴くきっかけをくれたK君にはとても感謝している、だけどヘビメタファッションがどうも好きになれない。
ライブに出るときは青や黒のアイシャドウ、赤い口紅、逆立てたロングヘア、じゃらじゃらしたアクセサリーといういでたち。
好意を持ってもらったりで少しだけお付き合いもしたけど、ライブ後に一緒に歩くのが嫌でした(ごめんなさい)
誕生日には手編みのレッグウォーマーが欲しいとのリクエストにより、苦手な編み物に挑戦、左右長さの違うヘンテコなレッグウォーマーを差し上げ、ライブの際にそれを履いてギターをかき鳴らしていたっけ・・・。
スコーピオンズ、ナイトレンジャー、クワイエットライオット、モトリークルー、ドッケン、WASP、アイアンメイデン、レインボー、ディオ、ディープパープル・・・今でもたまに聴いているハードロック!
これに付随して70年代、60年代のロックも聴くようになった。
【参考】1984年の関西の番組にラウドネス出演映像↓こんな感じがヘビメタファッション。
この動画の最後にスーパーのダイエーCMが入っていたのだけど、坂本龍一氏のバレンタインセット必見!!
高校卒業あたりから、さらに音楽の好みがはっきりしてきます。
特にサブカル系に興味も出て聴く音楽は大きく変わる。
20代前半、当時バブル期でボディコンスタイルやお立ち台などのギラギラ派手なディスコやクラブには見向きもせずに生きていた。(当時はマハラジャやジュリアナなど)
80年代~90年初頭までの主流はニュージャックスウィング系を中心にアメリカのR&B、ヒップホップ系ノリノリダンスミュージックが大流行の時代。(ボビーブラウンやMCハマーなど)
私はサブカル系雑誌といえば宝島やファッション系雑誌などの影響もあり、
音楽=単なる流行りBGM、クラブやディスコはナンパや男女の出会いの場、騒ぎ盛り上がる場として遊んでいた人とは異なる意識で音楽に向き合っていた。

ディスコやクラブでナンパについていくこともなく、音楽に向き合う場として遊んでいた。
音楽(リズム)と一体になる感覚というか、頭の中は音楽、余計な雑念など消え、純粋な気持ちで音楽を楽しみリズムに乗る、踊る。
このころ、誰と一緒に行ったか、DJが誰かなどはあまり記憶にありません。
ディスコに行けば顔なじみもいたし、常連(顔パス)の知り合いもいたし、誕生日には店のDJがバースデーソングと共に選曲カセットテーをプレゼントしてくれたりもした。
日本のポップスではシングル曲以外のアルバムを通して全部が好きだったのが大澤誉志幸と杏里のみ!
対局的な世界観の2人ですが、共通項は「大人の世界」を表現していたこと。
大澤さんが大人の男女の危うい関係を歌に、杏里は大人の女性目線の恋を歌う。
今でもよく聴きます。
ディスコに行くのは同級生、クラブはバイト先の先輩や同僚、そして団塊世代の上司たちとはオールディーズ(50年代のアメリカポップスやロック)生バンドで踊るケントス、と音楽の場を楽しむ相手を変えていた。

見つけてしまった…タカちゃんのヴォーカル上手いのよ!!前列で踊るのは常連の知っているおじさんだ!!
記憶をたどる・・・
六本木/「ネペンタ」「ザ・リージェンシー」新宿/「ニューヨーク・ニューヨーク」「ゼノン」「GB」「B&B」渋谷/「ラ・スカーラ」西麻布/「3.2.8」六本木/「GIZA(ギゼ)」原宿/「ピテカントロプス・エレクトス」「クラブD」西麻布/クラブ「P・PICASSO」飯倉片町/「プレステージ」新宿/「第三倉庫」高樹町「バブリン・ダブ」有楽町/「日比谷ラジオシティ」渋谷区/「Jトリップバー」新宿/「ツバキハウス」港区海岸/「芝浦GOLD」 と、六本木ケントス
→参考サイト-20世紀日本クラブシーン年表 年表にないものも記載したけど、もっとあった気がするけど・・・思い出せないw
同時期にバイト先のあこがれていた先輩が毎朝ルースターズを聴いてテンション上げて出勤しているという話しを聞き、すぐにルースターズを聴き始め、男くさい歌詞の世界観とローリングストーンズやチャックベリーのカバー曲などにはまりました。
この時期に「めんたいロック」に触れることになるがルースターズ以外にはなぜか興味がなかった。
※めんたいロックとは福岡博多出身のロックバンド。シーナ&ロケッツやモッズ、ロッカーズなど。
日本のめんたいロックよりもロンドンパンクロック側、クラッシュやピストルズなどを聴くようになる。
当時一緒に遊んでいた同級生や同僚達とは30数年後の現在、会うこともなく、所在も知らない。
ここから、私は人生の暗黒期へ突入する。
時代はバブル崩壊へと進んでいた。
20代中旬~暗黒時代へ
23歳ごろまでの私は、若さゆえとバブルの好景気もあって就職活動もせず、バイトからそのまま正社員へ、そこで出会った人と結婚。
普通に「幸せな人」であったと思う。
もし人生をやり直せるなら、ここから・・・・やり直したい!!
※韓国ドラマにありがちなタイムスリップしたいよ~(泣)
結婚式から半年ほどで母が急死。
結婚しても母に料理を習うという名目で夜遊びをしに実家に戻っては朝帰りをしていた私。
そんなある日の朝、料理を習うというから毎回食材を用意して待っていても夜は遊びに行くばかりで何もしない、何をしに戻ってきているの!と母、かなりの剣幕・・・。
その後母はパートへ出かけ、昼頃に母の勤め先から倒れたと連絡が入る。
この時、私の中では普段血圧高めの母のことだから体調崩したのだろうぐらいに思っていて、怒らせちゃったお詫びに帰りに銀座でお寿司でも食べて帰ってこよう、なんてのんきな気分でいた。
緊急で運ばれた病院につくと地下へ案内された。
霊安室にいる母を見たとたん、腰が抜けて、震えて、涙が出て、パニックになり、夫に電話、父の職場に電話、弟のバイト先に電話・・・・
※このころはまだ固定電話の時代。
別れは突然やってくる。
母との最期の会話が喧嘩だっただけに、後悔の念と罪悪感、悲しみで私は暗闇の世界に突入していく。
毎日涙が枯れるまで泣く、一生分の悲しみが押し寄せてきたみたいだった。
同時にパセドウ病にもなり精神的にもひどい状態となる。
※パセドウ病とは→隈病院サイトへ
1年が過ぎても悲しみは癒えないまま離婚し実家に戻った。
生きる気力を失い通院もやめ、病状はひどくなる一方。
ここから、パセドウ病独特の眼球突出、顔がむくむ、異常な心拍数による息切れ、汗、常にイライラ、筋力低下などの症状で顔つきが変わります。父や弟たちとの関係も悪化。
この時期の写真はほとんどありません。
音楽の神様
悲しみに暮れていた私が唯一、楽しめるものが音楽だった。
23歳~28歳くらいまで自宅を出ることもなく、人に会うこともほぼなく、引きこもり状態となるが、音楽だけはいつも私の味方だった。
思考がネガティブすぎて友達も離れていき、人を寄せ付けない雰囲気だったと思う。
近寄ってくるのは宗教の勧誘くらいだった(笑)
人とのかかわりは無くなったが、音楽との出会いは続いていく。
運命の出会いアシッドジャズ
1980年後期から1990年初頭あたりのアシッドジャズに没頭するようになる。
アシッドジャズ、トーキングラウドレーベルから出ていたアーティストの音楽に心が躍る。
音楽を聴いている時だけは悲しみから解放されて、わくわくして、踊りたくなる。
踊れるジャズに出会い、私の人生は少しづつ陽の当たる方へ歩みだす。

アシッド・ジャズ・レコーズ(Acid Jazz Records)は、1987年ジャイルス・ピーターソンとエディ・ピラーによって設立したレコード・レーベル。コーデュロイ 、マザーアースなど

トーキング・ラウド(Talkin’ Loud)は、ジャイルス・ピーターソンがアシッド・ジャズ・レコーズ を離れたのち1990年に設立したレコードレーベル。ガリアーノ、インコグニート、ヤング・ディサイプルズなど
当時日本では「渋谷系」としてピチカートファイブやフリッパーズギター、オリジナルラブが御三家として人気があった。
が、私の耳(無意識の好み)はオリジナルラブのみが好きで、渋谷系と言われる音楽はハマらずにややスルーぎみでした。それよりも海外のアーティストとそん色なく、日本人が同じレベルだったアーティスト達の方が好きでした。
特にMonday満ちるを皮切りにUnited Future Organization(UFO)、Kyoto Jazz Massive、MONDO GROSSOなどにどっぷりとハマる。
この出会いは私の生きる力となり、元気ソングでもなんでもないのだけど、勝手に踊りたくなる魔法をかけられたような衝撃を感じ部屋で1人踊っていました。
闇から抜け出した運命の音楽


私の人生にはいつも「音楽」がある。
悲しみを癒してくれるのはいつも音楽だった。
どんなに辛いことがあっても、落ち込んでいてもその時々の音楽に救われて生きている。
頭で考えない、心で聴く、だからアーティスト名や楽曲名などは覚えていなかったり。
当時、友達もいないから夜遊びは全くしていない。
引きこもってひたすら音楽を聴く。ふと耳に入ってくる「音楽」に救われ癒されていく感覚。
私は音楽の神様に愛されていると思っている。
20代半ばに母が亡くなった時も、29歳ではじめての手術をした時も、30代半ばで2歳下の弟が急死した時も、39歳で父が肝臓がんで亡くなった時も、311地震の時も私に勇気や力を与えてくれたのはいつも「音楽」だった。
「人」に対しては音楽ほどのパワーをもらう出会いや経験をしていない。

その時々でふと心に残るリズムや歌があって、あ、この曲すごく好き!
理由なんてわからないけど、心がワクワクして幸福な気持ちになります。
2020年~BTSを知る
コロナ禍、BTSのDynamiteを知った時から新たな音楽の世界=ビジュアルとストーリーを追う推し活へ。
五感を揺さぶられる音だけではないKコンテンツ(K-POP・韓国ドラマ)の威力の沼へ・・・・(笑)
このブログもKPOPや韓ドラネタを多く書いております。
これから私はどんな音楽に魅了されるのか、「音楽と私」はこれからも、生きている限り続いていきます。


この写真は周りを切り取られている、それは母亡き後、
父が財布に入れるサイズに切って忍ばせていたもの。
若い頃の写真元は白黒でしたが、Photoshopでカラー加工してみた。
父は昭和の頑固おやじでもなく、ふろ上がりに裸でへんな踊りをして私たち子供の気を引くことに一生懸命な変わり者、石原裕次郎や日活映画、寅さんなどの日本映画を心から愛し、頼りないところもたくさんあったけど、たまにスーツ着るとやくざみたいに見える(笑)そんな父と、家族のために生き、奮闘し、厳しくも、優しく、父のことが好きだった母。
その長女として生まれた私、両親へは愛しかないし、感謝しかない。
私はこの2人のDNAを受け継いで今を生きている。これからも…
Spotifyプレイリスト
自分で選曲したMD。MDはデッキがなくて再生ができないのでSpotifyで探してプレイリストにしました。

同じ楽曲がないものも多かったけど、あの頃大好きだった音楽たち。
当時は新しくてかっこよくて、悲しみから立ち直るエネルギーを私にくれた。
MDにある楽曲をSpotifyにあるものだけ入れました。マンデー満ちる、UFO、KJMなどはアルバム聞きなのでここには入れていませんが、アルバム検索してみてね!
コロナ禍で知ったKPOP/BTSはアルバムとして聴く。NewJeansがお気に入りのKPOPセレクト編
今でも愛してやまないロック!1960年代後半~70年代のサイケ~プログレロック!
1980年代~主にアメリカのハードロックの名曲!サイケなロックより切れのあるギターが特徴!
ディスコで踊りまくった曲の数々と80年代青春時代な洋楽編!
今でも好きなJPOPは楽曲が少なめですが、どれも思い出の音楽です。シティーポップは入ってない(笑)
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